【ゴッホの生涯まとめ】どんな人?意外なゴッホの人生とは?

多くの名作を残したゴッホですが、画業は10年ほど。画商として働くも失恋のショックで仕事に身が入らず解雇になったり、牧師を目指すも挫折したり……。不器用で回り道をしたからこそ、繊細で心に残る絵が描けたのかもしれません。

ゴッホはどんな人だったのでしょうか?ゴッホの人生は?経歴は?ゴッホ作品をより理解するために、ゴッホの生涯をひもときます。

ゴッホの生涯(1)画家になるまで(1853年~1881年)

ゴッホが紆余曲折を経て画家になったのは、27歳のことでした。画家になるまでのゴッホの人生を見てみましょう。

◆オランダで生まれ育つ

ゴッホは1853年、オランダのズンデルトで生まれました。フランスのイメージがあるゴッホですが、実はオランダ出身のオランダ人です。

ゴッホの生まれ故郷であるズンデルトは、今も人口2万人ほどの小さな村。秋には800万本ものダリアの花を使った花パレードが有名です。

ゴッホは37年の人生の中で、ひまわりをはじめ多くの花を描きました。いまも故郷に花が溢れていると知ると、なんだかうれしくなります。

ゴッホは6人兄弟の長男で、父は聖職者でした。4つ年下の弟テオドルス(通称テオ)は、生涯にわたってゴッホを支え続けます。

ゴッホは生前、一枚しか絵が売れませんでした。弟テオが経済的に、そして精神的にもゴッホを支えたからこそ、ゴッホの名作が生まれたのです。

そしてテオは、ゴッホの文通相手でもありました。良き理解者として多くの手紙を交わし、ゴッホの感情を受け止め続けました。

弟テオなくして、ゴッホなし。テオは“もう一人のフィンセント・ファン・ゴッホ”と言えるかもしれませんね。

◆人間関係がうまくいかず、職を転々とする

ゴッホは遅咲きの画家でした。画家になる27歳までの間、画商や教師、牧師などさまざまな職を転々とします。

ゴッホは気性が激しく、不器用な性格でした。折に触れてトラブルを起こしてしまいます。仕事を始めても、長続きしません。

失恋のショックから仕事に身が入らなくなり、退職を余儀なくされることもありました。巨匠のイメージからは遠い、繊細な“人間ゴッホ”を感じるエピソードですね。

職を変えたとはいえ、画商としての経験は“画家ゴッホ”の土台を築きました。

ゴッホが16歳から約7年間働いたのは、叔父が経営していた「グーピル商会」という美術商です。グーピル商会はパリに本店を構え、ハーグやブリッュセル、ロンドンに支店を置いた大美術商でした。

ゴッホはグーピル商会での仕事を通じて、多くの名画に触れました。そして趣味で絵を描くようになりました。本物に触れることで、ゴッホは感性を磨き、絵画への静かな情熱を燃やしたのでしょう。

◆細々と、農家や農民のスケッチを始める

職を失ったゴッホは、父親からの仕送りを受けながら生活をしていました。そして、農家や農民のスケッチを始めます。

ところが聖職者である父親は、働かないゴッホに業を煮やしました。ヘールにあった精神病院に入れようと考えるようになります。

そこで登場するキーパーソンが、当時グーピル商会で働いていた弟テオです。見かねて、ゴッホに金銭援助を始めたのです。

ゴッホの生涯(2)画家としてのスタート(1881年~1886年)

ゴッホは27歳にして、ようやく画家を志すようになりました。4歳年下の弟テオからの支援を受けつつ独学でデッサンを学び、画家として描き始めます。

◆実家でスケッチを繰り返した日々

ゴッホは28歳のとき、実家のあるオランダ・エッテンに戻ります。この地でゴッホは、はじめて自分のアトリエを構えることができました。

エッテンは、ゴッホの生まれ故郷・ズンデルトの近くにある町です。ゴッホは田園風景や近くの農夫たちを素材に、素描や水彩画を描き続けました。

◆暗い色調時代

当時のゴッホが影響を受けていたのは、バルビゾン派の画家ミレーでした。ミレーは、農民の姿やその情景を描き続けたことで有名です。作品としては《晩鐘》《落穂ひろい》が有名ですね。


ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年 オルセー美術館蔵

ミレーの影響を受けたゴッホの絵は、当然ながら色調が暗くなります。たとえば《スフィニンゲンの海の眺め》


フィンセント・ファン・ゴッホ《スヘフェニンゲンの海の眺め》1882年 ファン・ゴッホ美術館蔵

暗いトーンで満ちていて、後年のゴッホからは想像もつきません。重苦しい雰囲気の絵を描いていた時代です。

◆ハーグ、ヌエネン、アントワープ……拠点を移し続ける

エッテンにある実家に戻ったゴッホでしたが、ずっと住んだわけではありませんでした。

オランダ・ハーグへ、そして父親が仕事のために移り済んだヌエネンへ。さらに、ベルギーのアントワープへと移りました。

住まいを移すきっかけには、いつも不器用な生きざまが関係しています。父親とささいなことで口論になって家を飛び出したり、教授と画風のことで意見が合わず学校を辞めてしまったり……。自分の感情に正直に、そしてまっすぐに生きた人だったのでしょう。

トラブルを起こすたびに落ち込み、傷心しての転居だったはず。でも決して無意味ではありませんでした。

たとえばオランダ・ハーグでは、ハーグ派の画家アントン・マウフェから、手ほどきを受けることができました。

後年恩師がこの世を去ったことを知ったゴッホは、当時アルルにいました。そのときに描き上げた作品が、別記事「ゴッホ作品《花咲く桃の木》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」で紹介しているこちらの作品です。


フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く桃の木》1888年 クレラー・ミュラー美術館蔵

作品の左下を見てください。何か文字が書かれていますよね。これは「マウフェの思い出に、フィンセント」という内容です。ゴッホなりに感謝の気持ちを込めて書き添えたのでしょう。

ゴッホは回り道しながらも、それぞれの場所で恩師と出会ったり、少しずつ歩みを進めたりしたのです。

ゴッホの生涯(3)パリ時代(1886年~1888年)

1881年、ゴッホは何の前触れもなく夜行列車でパリに向かいます。そしてモンマルトルにあった弟テオの部屋に住むようになりました。二人では手狭になり、その後アパルトマンに引っ越しています。

◆印象派と出会い、明るい色彩に目覚める

パリに移ったゴッホは、画風が一変しました。印象派の絵と出会い、明るい色彩に目覚めたのです。ゴッホはパリの街中で、レストランや公園などさまざまな風景を描きました。

たとえば、別記事「ゴッホ作品《レストランの内部》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」でも紹介した、こちらの絵は代表例です。


フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの内部》1887年 クレラー・ミュラー美術館蔵

ゴッホはこの時期、モンマルトルの丘の風景画も多く描いています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》1887年 カーネギー美術館蔵

パリ時代のゴッホの絵は、とても明るくなりました。大地や農夫をモチーフとしていたオランダ時代のゴッホとは、まるで別人のようです。

◆花の絵を描き、色彩の研究をする

パリ時代のゴッホは、花の静物画をたくさん描きました。《ヒナギクとアネモネのある花瓶》は、パリ時代のゴッホが描いた代表作の一つです。


フィンセント・ファン・ゴッホ《ヒナギクとアネモネのある花瓶》1887年 クレラー・ミュラー美術館蔵

ゴッホは多くの花の絵を描くことで、色彩を学びました。黄色や赤、白などの色彩が、青の花瓶の中で一つにまとまっています。黄色と青という組み合わせにも、ゴッホらしさを感じる一枚です。

パリ時代に描いた花の絵については、別記事で紹介しています。ぜひあわせてご覧ください。

ゴッホはパリ時代、たくさんの花の静物画を描きました。色彩を研究するためです。街路を彩るライラックや野に咲くヒナゲシ……パリ時代の花の絵は、と...

◆浮世絵を知り、模写しながら手法を学ぶ

パリでのゴッホの大きな収穫は、浮世絵の刺激を受けたことでした。当時のパリは、ジャポニスムが花開き、浮世絵が人気を集めていました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャポネズリー:雨の橋》1887年 ファン・ゴッホ美術館蔵

ゴッホも、浮世絵に夢中になった一人です。大胆な構図や鮮やかな色彩、くっきりとした輪郭線……西洋絵画の常識を覆す日本の浮世絵に、大きな可能性を感じました。

600枚と伝わるほど多くの浮世絵を収集したり、浮世絵展を開いたり、模写したり。ゴッホは浮世絵に、心底惚れ込みました。浮世絵のエッセンスを吸収したゴッホは、続くアルル時代に名作を生み出すことになるのです。

ゴッホと浮世絵の関係については、別記事で詳しく紹介しています。ぜひあわせてご覧ください。

ゴッホは、日本の浮世絵から影響を受けた画家として有名です。でも一体、なぜ浮世絵に惹かれたのでしょうか?浮世絵をどのように、自分の作品に生かし...

ゴッホの生涯(4)南仏アルル時代(1888年~1889年)

1888年、南仏の限りなく明るい陽光を求めて、ゴッホは南仏アルルへと旅立ちました。たった1年の滞在でしたが、数多くの名作を残しています。

私たちがゴッホと聞いて連想する絵画は、ほとんどが南仏アルルで描かれたものです。ゴッホはアルルに住んだたった1年の間に、《ひまわり》《夜のカフ...

◆才能の開花、名作誕生

南仏アルルに着いたゴッホは、一気に才能を開花させました。《夜のカフェテラス》《アルルの跳ね橋》、そして名作《ひまわり》などは、すべてアルル時代の作品です。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年 ノイエ・ピナコテーク蔵

オランダ時代に培った技法と、パリで学んだ印象派のスタイル、さらに浮世絵の研究。すべてを融合させたゴッホの前に、アルルの美しい風景が広がっていました。

いよいよゴッホ独自の新しい画風が花開き、名作が誕生する瞬間がきたのです。不器用な生き様でした。でもすべての出来事、すべての別れに意味があったのだと、感じざるを得ません。

◆ゴーギャンとの共同生活を夢見た「黄色い家」

ゴッホのアルル時代を語る上で、黄色い家の存在は外せません。

フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年 ファン・ゴッホ美術館蔵

新天地アルルで、ゴッホは次々と新しい作品を描き上げました。パリから画家仲間を呼び寄せて、共同生活を送ろうと考えます。

ゴッホは、芸術家どうしがお互いに切磋琢磨し合える、いわば“芸術村”を作ろうと考えたのです。その舞台となったのが「黄色い家」でした。

ゴッホの名作《ひまわり》は、黄色い家の壁を飾るために描かれたものでした。黄色い家の中で輝く、黄色いひまわりの数々。南仏アルルの光の中で、ひときわ明るく光っていたことでしょう。

◆南仏アルルを去るきっかけになった「耳切り事件」

ゴッホの黄金時代ともいえるアルル滞在は、1年ほどという短い期間でした。終止符を打ったのは、かの有名な「耳切り事件」です。

フィンセント・ファン・ゴッホ《耳に包帯をした自画像》1889年 コートールド・ギャラリー蔵

黄色い家での生活に大きな夢を抱いていたゴッホですが、誘いに応じたのはゴーギャン一人だけ。しかもお互いに個性が強く、一歩もゆずりません。意見がぶつかり、口論ばかりを繰り返します。

そしてついに「耳切り事件」が置きました。ゴーギャンとの激しい口論の末、ゴッホは自分の左耳下部を切り落としてしまったのです。そしてゴッホはアルルの病院に入ることになりました。


フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの病院の中庭》1889年 Oskar Reinhartコレクション

その後退院したゴッホを、アルルの人々はこわがりました。80人の市民の署名により、ゴッホは南仏アルルを出ることになったのです。

ゴッホの生涯(5)サン=レミ時代(1889年~1890年)

アルルを離れたゴッホは、南仏プロヴァンスの小さな町サン=レミへと移ります。ゴッホは精神病院で療養生活を送りながら、アルピーユ山脈やオリーブ畑などを題材に、多くの作品を描きました。

◆精神病院「サン・ポール・ド・モーゾール」に入院

ゴッホが入院していた病院の名を「サン・ポール・ド・モーゾール」と言います。元は修道院だった場所で、中庭には美しいラベンダー畑が広がっていました。

入院していたゴッホは、時折発作を起こしました。とはいえ、合間は落ち着いています。ゴッホは鉄格子の外に広がる、サン=レミの風景を描きました。付添い人が一緒なら外出も許されたため、屋外での作品も残しています。

◆ゴッホの絵に、渦やうねりが登場

サン=レミ時代、不安な気持ちを表すかのような渦やうねりが、ゴッホの作品に登場します。《星月夜》は、その代表的な例ですね。

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年 ニューヨーク近代美術館蔵

ゴッホの絵から、パリやアルル時代のような明るさがなくなりました。木々も山も建物も、すべていびつに歪んでいます。

病気とたたかうゴッホは、不安に押しつぶされまいと必死だったのでしょう。そして、あり余る情熱や感情を何とかして表現したい、思いのたけをぶつけて自己主張したい……ゴッホの心の叫びが聞こえてくるかのようです。

◆ひまわりから「糸杉」へ

アルル時代はひまわりを好んで描いたゴッホでしたが、サン=レミに移った後は糸杉を多く描いています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》1890年 クレラー・ミュラー美術館蔵

ひまわりには、太陽を想わせる華やかさがあります。一方の糸杉は、孤独を感じさせます。これもゴッホの心理状況を伝えてくれます。

ゴッホの生涯(6)オーヴェール・シュル・オワーズ時代(1890年)

ゴッホはパリ郊外にある美しい村、オーヴェール・シュル・オワーズへと移ります。この地でゴッホの人生に幕が下ろされます。

◆医師ガシェとの穏やかな日々

ゴッホが療養の地としてオーヴェールを選んだ理由に、精神科医ポール・ガシェの存在がありました。


フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年 オルセー美術館蔵

ガシェは医師でありながら、自らも絵画をたしなむ“日曜画家”です。そして絵画のコレクターでもありました。ゴッホにとってガシェは、医師であると共に友人でもあり、良き理解者になったのです。

◆約70日の間に、80点もの作品を描く

ゴッホがオーヴェールで過ごしたのは、わずか70日ほどのことでした。ところがその短期間のうちに、およそ80点もの作品を描いたことが知られています。

70日で80枚の絵を描くわけですから、一日に1点ないし2点仕上げるペースです。考えられないような情熱と力が、ゴッホの中に渦巻いていたのでしょう。

◆希望に満ちた明るい絵の数々

オーヴェールは、ゴッホが最晩年を過ごした地です。しかも幕引きは、自分にピストルを向けるという悲しいものでした。でも最晩年にゴッホが描いた絵には、希望に満ちた明るい絵も多いのです。

たとえば、オーヴェールの何気ない日常を描いた《オーヴェールの家々》


フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェルの家々》1890年 トレド美術館蔵

そして、別記事「ゴッホ作品《ドービニーの庭》とは?魅力と3つの鑑賞ポイント」で紹介した《ドービニーの庭》。緑溢れる初夏の光景が美しい作品です。


フィンセント・ファン・ゴッホ《ドービニーの庭》1890年 バーゼル市立美術館蔵

医師ガシェの娘・マルグリットの絵も描きました。


フィンセント・ファン・ゴッホ《庭のマルグリット・ガシェ》1890年 オルセー美術館蔵

サン=レミでは鉄格子のはまった部屋で過ごしたゴッホでしたが、オーヴェールには陽光が降り注ぐ光景がありました。澄み切った空気と、どこまでも広がる田畑。ゴッホは晴れやかな気分を味わったことでしょう。

まとめ

ゴッホというと、天才というキーワードと共に、苦悩や狂気、孤独、壮絶、挫折……そんな言葉が並びます。たしかにゴッホはとても不器用でした。回り道をたくさんしました。でもすべてのエピソードが、ゴッホの繊細さと静かな情熱を伝えている気がするのです。

自分の可能性を模索した初期、明るい色彩に目覚めたパリ時代、数々の名作を残したアルル時代……その渦中にあるゴッホは、常に必死だったことでしょう。37年の人生をかけてゴッホが無我夢中で描いたと想うと、ゴッホ作品がより胸を打ちます。

ゴッホの代表作のほとんどは、晩年のおよそ3年間に集中しています。色彩溢れる南仏アルルに移住したゴッホは才能を開花させ、数々の名作を生みだしま...
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