白樺派が恋焦がれた、ゴッホ幻の名作《芦屋のひまわり》

ゴッホが描いた“花瓶に入ったひまわり”は全部で7点。このうち一枚は、東京の「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」で常設展示されています。実は大正時代、日本にもう一枚《ひまわり》が存在したことをご存じですか?

その作品は、兵庫・芦屋に大邸宅を構えた実業家が購入したもの。白樺派からの熱烈なラブコールを受けてのことでした。戦火によって灰になった幻のひまわり、通称《芦屋のひまわり》を紹介します。

幻の《芦屋のひまわり》とは?

「芦屋のひまわり」とは、1920年(大正9年)に実業家の山本顧弥太(こやた)が購入した「ひまわり」のこと。居を構えた地名にちなみ《芦屋のひまわり》と呼ばれています。

芦屋とは、“東の田園調布、西の芦屋”と称される高級住宅街。澄み渡る空、豊かな緑、歴史を感じさせる邸宅の数々。ゴッホの名作ひまわりを飾るにふさわしい土地です。

ゴッホのひまわりといえば、背景が黄色の絵が代表的です。鮮やかでまばゆくて、とても豪華で……そんな印象ではないでしょうか。


フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年 ナショナル・ギャラリー蔵

ところが《芦屋のひまわり》はテイストが異なります。花瓶に生けられたひまわりは5本、深く落ち着いたロイヤルブルーの背景が目を引く作品です。

実はこのひまわり、ゴッホが7枚描いたうちの2枚目。ごく初期の作品なのです。

2億円で購入!山本顧弥太とは?

芦屋のひまわりの購入価格は2万円でした。今の価値でいえば2億円に相当します。2億円というと、かなり高い買い物です。それほどの金額を払ってでも、手に入れたかった作品なのでしょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》1888年 山本顧彌太旧蔵(滅失)

現代では、ゴッホの名声は揺るぎません。でも芦屋のひまわりが購入されたのは、まだ大正時代。ゴッホの存在を知っていたのは、限られたごく一部の文化人だけ。今とはまったく状況が違うのです。

そこまでの私財を投じるには、よほどの思い入れがあったはず。その情熱はどこから生まれたのでしょうか?そして、一枚の絵画に大金を払うことができた山本顧弥太とは、そもそもどんな人だったのでしょうか?

>>綿織物の商いで成功

山本顧弥太は1886年(明治19年)大阪生まれ、綿業貿易で成功を納めた実業家です。文化人でもあり、句集も出版しました。

山本顧弥太は若くから経営手腕を発揮して、一代で財を成します。そして兵庫・芦屋に大豪邸を建てます。その豪邸に飾られたゴッホの作品が《芦屋のひまわり》というわけです。

>>武者小路実篤からの誘い

山本顧弥太がひまわりを購入したのは、理由がありました。白樺派のリーダー武者小路実篤から「購入してほしい」と打診されたからなのです。

山本顧弥太は、武者小路実篤に傾倒していました。というと、武者小路実篤がずいぶん年上というイメージですが、実際は1歳違い。

武者小路実篤は1885年生まれですから、山本顧弥太の1歳年上。二人は同年代の同士として、生涯友人のような関係だったそうです。

武者小路実篤は文学者として自らの理想を追い求め、仲間を募り、活動を進めました。一方の山本顧弥太は商売人です。商いで得た資金を生かし、パトロンのような役割を果たしたのです。

白樺派とは?

白樺派について掘り下げてみましょう。

>>武者小路実篤をリーダーとするグループ

白樺派とは、明治時代の文豪・武者小路実篤がリーダーとなって結成されたグループです。

作家では武者小路実篤を筆頭に、志賀直哉や有島武郎、里見弴たちが参加しました。画家は、梅原龍三郎や岸田劉生たちと、そうそうたるメンバーです。

白樺派は1910年(明治43年)に、『白樺』という雑誌を刊行しました。雑誌名から“白樺派”と呼ばれるようになったのです。

>>西洋美術を日本に紹介

白樺派のメンバーの多くは、いわゆる上流階級育ち。雑誌「白樺」を通して、新しい文学を発表します。そして西洋美術の紹介にも力を注ぎました。

セザンヌやゴッホ、ルノワール……私たちにとっては、よく知る巨匠です。それは白樺派が紹介したおかげ。白樺派の活動によって、日本でも広く知られるようになったのです。

>>ゴッホへの強い関心

白樺派メンバーは、芸術家の生き様や思想に関心を持っていました。波乱に満ちた人生を送ったゴッホを知った白樺派は、ゴッホに強い関心を持ちます。

フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》1889年 オルセー美術館蔵

そして、「ゴッホの作品を日本に!」と考えるようになりました。「いつか自分たちの美術館を建てたい。そこにゴッホの絵を!」という夢も持つようになったのです。

そんな中、パリから届いた白樺読者からの手紙で、ゴッホの絵が2万円で買えることを知った武者小路実篤。何としても手に入れたいと考えます。

そして、パトロンとして資金援助をしてくれていた山本顧彌太に白羽の矢が立ちます。購入を打診したところ、快諾して購入となったのです。

そして空襲で《ひまわり》が灰に…

ゴッホのひまわりが海を渡り、日本へと到着しました。ところが時代の流れの中、美術館を建てる計画が頓挫します。

山本顧弥太は購入した《ひまわり》を、芦屋の自宅の応接室に飾りました。いずれ実現すると信じていた美術館設立まで“預かっておく”という感覚だったのだとか。

日本は激動の時代を迎えます。1927年に金融恐慌が起こりました。山本顧弥太は会社をたたみ、邸宅も処分します。

でも《ひまわり》だけは手放しませんでした。なんと律義な人なのでしょうか!

その後、第二次世界大戦が始まります。大切な《ひまわり》に何かあっては大変です。山本顧弥太はゴッホの《ひまわり》を、大阪の銀行に預けようとしました。

ところが実現しませんでした。「湿度の関係で作品が劣化する」といった理由で、拒否されたのです。

そして《ひまわり》は、1945年8月5日から6日にかけての神戸空襲によって、焼けてしまいます。山本邸は全焼、ひまわりも灰になってしまいました。

戦争の終結まであとわずか。終戦9日前の出来事でした。

芦屋のひまわりを巡る人々の想い

山本顧弥太と武者小路実篤は、戦後顔を合わせます。そのときに山本顧弥太は、「申訳ありませんでした」と深く頭を下げたのだとか。

山本顧弥太の4人目の子どもである房子さんの言葉が、『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』で紹介されています。

父は武者小路さんたちの情熱に賛同してあの絵を買いました。倒産して自宅を手放したときも、あの絵は売らなかったのです。それは、<ひまわり>は自分のものではなく、預かりものだと思っていたからなんです。

(引用)2014年 集英社 朽木ゆり子著『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』19Pより

山本顧弥太は《ひまわり》の所有者です。しかも空襲で大事な財産を失った、辛い立場でもあります。

にもかかわらず頭を下げた……そのまっすぐな心とどこまでも誠実な姿勢に、ただただ頭が下がります。

まとめ

焼けてしまった“幻のひまわり”を、私たちは目にすることはできません。ところが2014年、徳島県「大塚国際美術館」が《芦屋のひまわり》を原寸大の陶板で再現しました。

今では失われた名画を、陶板画として見ることができます。鳴門の海の青と、ゴッホのひまわりの青。きっと美しく響き合っていることでしょう。

(参考)大塚国際美術館公式サイト「ゴッホの幻の「ヒマワリ」」

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